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2017年 07月 19日 |
先週よく知る二人の方が同日に天に召されました。

Fさんは、関教会の会員で教会の執事でもありました。彼女は1年の闘病生活を経て、1週間前にホスピスに入られ、前日の日曜日には教会の礼拝に出席してくださいました。最期の時は静かにお母さんに看取られて逝かれました。

Kさんは、牧師の奥様でご主人のK牧師と共に長年の友人でもあります。僕にとって気を使うことなく付き合える方のひとりでもありました。最期はご家族が歌う讃美歌と御言葉の中で逝かれました。

共に葬儀の司式をさせていただきました。忘れることのできない1週間になりました。お二人とも信仰をもって召されて私たちに多くのものを残してゆかれました。
でも、悲しみは残ります。二人共に50代で人間的な思いからすれば、なぜ?もう少し長く…という思いもあります。

教会の葬儀の祈りのことばにこんなことばがあります。
「今はその意味がわからなくても、やがてわかる日が来ることを悟らせてください」。僕は今、この祈りをしながら歩んでいます。ご家族が支えられるようにとの祈りと共に。

奥様を送られたK牧師は前夜式の挨拶でこんなことばを語られました。
「家内が倒れた後、祈りの輪が教会に多くの人びとの間に広がっていたのを感じていまし た。牧師になってもうずいぶんになりますが、祈りの力、恵みというものをとても強く覚えさせられました。もう一度、祈り手として神さまは私を召されているのだと今、思います」と。
 たぶん、僕にとって忘れられないことばになるでしょう。

今週の月曜日には同盟基督教団のほくひ宣教大会(「ほくひ」は北陸・飛騨という意味)で講演をさせていただきました。150名弱もの信徒の方々が集まってくださいました。とても生き生きとした信仰をもって歩んでおられることに大きな励ましを受けました。
同盟教団の教会は古くから、飛騨・北陸地方に根をおろして、地道に教会の歩みを続けておられます。
皆さん、とても暖かく僕のようなものを迎えてくださいました。

今日からアメリカのアトランタに向かいます。
(普段はこんなにも忙しくはないのですが、不思議にも重なる時は重なるもので…)

 今日は家内の誕生日なのですが… m(_ _)m
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by rcjhashi | 2017-07-19 09:18 | etc |
2015年 09月 19日 |
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この日のことを記憶にとどめよ。
失くしてしまった民主主義と平和主義を取り戻す闘いが、今日から新しく始まった。
これから舞台は国会前から、地方の都市、町や村にも移っていく。

ひとりひとりとの対話や、ちいさな集まりを大切にしていきたい。あたたかく、理を尽くして、心を込めて、自分のことばを語っていきたい。そうすれば無関心から、諦念から、わけのわからない呪縛から、自由にされる人たちが、きっと新しく生まれてくるでしょう。
憲法について、民主主義について、平和について、
もう一度、よく学び、思索し、自分たちのものにしていこう。
「与えられたもの」「押しつけられたもの」なんてもうだれにも言わせないようにしよう。

学生たちのあの声、机の上にじっと座り続けていたはずの学者たちの震える声、おじいちゃんやおばあちゃんの声、子どもを守るママの本能の声…。この声は無駄にならない。まだこの日本という国は、捨てたものじゃないってことを、教えてくれた。
 
「それでも前向いて生きる」ことが、もっとこれからたくさんの人たちに伝わっていくといい。
 希望がないと思っている人がこの国にはあまりにたくさんいるから…。
 
9.19 この日のことは忘れない。

【憲法第98条】
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
by rcjhashi | 2015-09-19 10:53 | etc |
2013年 12月 16日 |
今日、読んだ本の言葉から…。忘れないためにも、考えたことを言葉にしてここに記しておくことにします。別の目的があって読んでいた本の中にこんなことが…。

 ナチスの閣僚、ヘルマン・ゲーリング(ヒットラーにつぐナンバー2の位置にいた)がこう言ったそうです。
「攻撃されるぞ、と恐怖を煽ることで民衆などというものは、いつも支配者の思い通りになる。平和主義を唱える者については、奴らには愛国心がなく国を危機にさらしていると非難しておけばいい。このやり方はどこの国でもうまくいく」。
  (『子どもが出会う犯罪と暴力』森田ゆり著 NHK出版 2006年)
(森田氏の引用はGustave M. Gilbert著、『Nürnberger Tagebuch: Ehemaliger Gerichts-Psychologe beim Nürnberger Prozeß gegen die Hauptkriegsverbrecher』、2009年、Fischer、ISBN 978-3596218851から) 
 
 正直、あまりの符合にがく然としました。このナチスが考えていた、どこの国でも巧くいく 「このやり方」が、この今、この国で進行していることだと…。言葉が見つからないのですが、なんとも言えない思いになりました。今のこの国の一部の人達が、このナチスのやり方に意図的に学んで行なっているのか、無自覚のうちに知らないで行なっているのか、それは僕のような者にはわかりません。どちらにしてもこの酷い<やり方>は、偽りであり、滅びへの道に国を導くことになってしまいます。

 僕は牧師として、政治的な発言をすることは、あまり好むところではありません。教会は特定の政治思想や政党に組するところではありません(実際、僕は無党派層の一人であると自覚しています)。ですから僕自身は、こうした事柄について、無知でもあり、また抑制的でもあり、その種の発言をほとんどしたことはありません。もしそんなことをしたら、自分の考えと異なる人たちを、キリストから、福音から遠ざけてしまうことになってしまうと思うからです。その考えは今でも変わってはいません。
 
 ただ一方で、 これまでヨーロッパのナチスに抵抗した牧師たちや神学者たちから、貧しいながらも、多くのことを与えられてきました。これからも、このような人達から多くのことを学びたいと願っています。彼らは神の言葉の説教によって、ナチズムと向かいあって行きました。
 関心を持ち、学び続けている「説教黙想」もこの戦いから生まれてきたものです。学んできたことをただの飾りにはしたくないように思います。
 
  今から、30年ほどの前のクリスマスの日に洗礼を受けて、信仰に入りました。その時の大切な動機の中にあったのも、あのホロコーストの出来事を知らされたことであったと今は思います。あの頃はあまりに若く、はっきりいってかなり無茶苦茶でどうにもならなかったのですが、そんな僕なりに考えていたことがあります。フランクルの「夜と霧」やエリ・ヴィーゼルの書いた本を読みました。どれほど理解できたかは疑わしいのですが、 <人>はなんて恐ろしいことをしてしまうのだろうかとの思いをそのときに抱いたことは今でも心に焼き付いています。
  それは自分は正しい人間だけれども、ヒットラーやナチの人達は酷いという思いではありませんでした。このようなことを行なったのは同じ<人間>であるという事実を突きつけられたのです。僕自身がナチがしたようなことをやりかねない人間なのだということに気づかされたのです。つまり、救い主に、救われなければならない人間なのだと知らされたのです。
  若い日に僕が教会で教わったことは、僕の場合は、これまでの高校や大学で教わったことを遙かに超えていました。今、自分が牧師として、そういうものを教会に集う、子供たちや若い人達に伝えることができているかというと恥ずかしい思いがしてきます。ただ教会にはこの世に対して、真実を告げる役割(預言者的使命と呼ばれます)があるということは信じています。
 
  少し前のことになりますが、息子が何気ない会話のなかで、
 「お父さんは、もう少し、社会のことについてはっきり語った方が良いのでは?」とぽつりと言いました。彼には僕の説教はあまりに宗教的に過ぎるように感じられるということであったのです。こういうことを彼が語ってくれたことに感謝をしています。子供たちを通しても、僕は少し、自分を修正しつつあるかもしれません。

 なんともまとまりのつかないことを書いてしまいましたが、こんな文章を終わりまで読んでくださった方があれば、心から「ありがとうございます」を申し上げたい。
by rcjhashi | 2013-12-16 22:22 | etc |
2013年 07月 18日 |
 ※できれば自民党改正草案2012年版を参照しながらお読みください。


 間もなく参議院選挙の投票日を迎えます。選挙の争点の一つが<憲法改正>とも言われているのはきっとご存知でしょう。参議院の選挙の結果次第では憲法改正の発議が可能になると言われています。しかし、では自民党政権はどのように憲法を改正しようとしているのかご存知でしょうか?実は、ご存知ない方がほとんどなのではないでしょうか。キリスト者であっても例外ではないようです。これはとても奇妙な現象ではないでしょうか。実は昨年2012年に自民党から改正草案が発表されています。当然のことながら、この改正草案にもっと注目が集まっても良いはずなのですが、現実にはそうなっていません。確かに部分的に「国防軍」と言う言葉については聞かれますが、他の部分について、または改正草案の全体像について触れられているのは極めて稀です。なぜでしょうか。一つ考えられるのは新聞やテレビで報道されることがあまりないからです。もう一つは、雰囲気や空気感に流されるのは今の時代のなのかもしれないと思います。憲法の問題よりも経済のこと、お金こそ関心事なのです。そう考えるとこの現象は極めて恐ろしいことです。そういうわけで今日は、この草案を実際に共に読んでみようと思いました。ただ時間に限りがありますので短く要点を絞って、お話しすることにします。

1.憲法改正か新憲法制定か
 憲法学者の伊藤真氏は、この改正草案は「憲法改正」というよりは「新憲法制定」と言うべきではないかと指摘されています。それは改正案が、現憲法の根本価値を否定しているからです。現在の憲法は、「主権者・国民が国家の権力濫用を防ぎ、国家に正しく権力を行使させるための法」という考えで作成されています。これは立憲主義という近代憲法の核となる考えかたなのです。要するに憲法は、国家、権力を持つ人たち(為政者や公務員)に向かっているのです。憲法を守らなければならないのは、国家の側であって、国民ではないのです。ところが、自民党の改正案はこの憲法の中心を180度変えてしまっています。憲法が、国民に向かい、国民の自由や権利を制限するものになってしまっています。国家の権力を制限するという憲法の本来の機能は失われて、極論ですが国家はなんでも好きなことをすることができるようになっています。それはこの改正案を読んでいただければ誰でもすぐにわかるのです。根本価値が変えられているわけですから、これを<改正>と呼ぶことはできず<新憲法の制定>と言うべきだということになるのです。野党の方々がよく<改悪>と言われて批判されているのを聞きますが、より破壊的なイメージを私個人ももっています。

2.前文について
では前文から読んでみましょう。前文は言ってみれば憲法全体の基本的な考えを表す看板です。この草案の前文からは「国民」よりも「国家」を優先し、国民に愛国心を求める方向性が明らかになっています。その証拠に、現在の憲法では、第1段落も第2段落も「日本国民は」という言葉で書き出されていますが、草案ではいずれも「日本国」はで始まっています。そして、「天皇を戴く国」と第一段落にあります。国家の尊重は天皇制(国家神道)の強化と結びついています。現憲法の国民が主権者であるとの強調は後退してしまって、国民は天皇の下に従属するという考えに代わってしまっています。
 平和主義も後退し、「我が国は平和主義の下、世界の平和と貢献する」(第2段落)とされ、自衛隊の海外派遣が暗示されています。過去の侵略戦争の加害責任に言及されることもありません。
 第3段落でようやく「日本国民」が主語になります。しかし、そこで「国と郷土を誇りと気概を持って守る」とあり、所謂、愛国心が国民に向かって強調されています。

3.  天皇について
 第一条は、「天皇は、日本国の元首であり」とあります。現在の憲法では「象徴」とされていますが「元首」に置き換えられています。自民党は「天皇が元首であることは紛れもない事実」と説明していますが、この意見に賛同できる人は少数です。元首は外国に対して国を代表する存在で通常は総理大臣が元首とされます。前文に「天皇を戴く国家」と位置づけた同様に、天皇制国家の強調の考えが見られます。
 またこの第一条と関連して、第三条では国旗国歌として日の丸、君が代が憲法の条文にあげられています。すでに国旗国歌法で、このことは決められていますが、それをあえて憲法にも明記しているわけです。さらに問題なのは第三条2項です。この条項は、日の丸・君が代尊重義務を国民に課するもので、思想・良心の自由を侵害しています。キリスト者の公立学校の教師の中には卒業式や入学式の君が代斉唱時に、起立しなかったために停職になったり、辞職しなければならなくなった人たちが既に現実におられます(キリスト者ではない方々にもおられます)。憲法が改正されるなら、こういうことはより頻繁に起こるようになるでしょう。否、教師だけではなく、もしかしたら、保護者たちや、さらには子供たちまでも罰せられることも考えられます。

4.家族の助け合いが義務化
 自民党の改憲案では、夫婦平等などを定めた24条の冒頭に家族の規定が新しく加えられています。家族は「社会の基礎単位」であり、「互いに助け合わなければならない」とされています。もともと現在の24条は「家」が過度に重んじられ抑圧されていた女性の解放のために設けられた法とされるが、昔ながらの「家」への回帰が見られるのではないでしょうか。国家から憲法で、家族のことまで云々されるのはどうでしょうか。国家が、私たちの家庭や心の中にまで入ってくるのは恐ろしいことです。
今回の自民党草案には他にも「日の丸君が代尊重義務」「領土・資源確保協力義務」「緊急事態指示服従義務」など、国民への義務規定が多いのです。一言で言うと、抑圧的で、息苦しくなります。全体主義という言葉が浮かんできます。このような国のかたちをキリスト者も、そうではない人達も望むのでしょうか。

5. 九条  戦争ができる国へ
 憲法草案の本丸は九条と言われます。現在の九条は「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を明記しています。そのままだと自衛隊は憲法違反になってしまうわけです。それに対して政府は、海外で武力を行使することは認められないが、自国への攻撃から守るために戦うことができる、だから自衛隊であれば合憲と解釈してきました。矛盾を抱えつつも、九条は日本が海外に侵攻していくような武器を持つことを抑制してきました。ただ近年は1991年にはペルシャ湾に、2004年にはイラクに自衛隊を限定的とはいえ派兵している。憲法の歯止めは揺らいでいるが、この歯止めはこの改正草案では完全に外される。九条から「戦力の不保持」と「交戦権の否認」は削除。「戦争の放棄」は残すが同盟国への攻撃には日本が反撃することも含め、「自衛権の発動」を妨げないという条文が加えられている。つまり、時の政権が「自衛権の発動」と判断すれば戦争もできることになります。戦争はいつも「自衛」の名のもとになされることを歴史は教えています。また憲法には国防軍は国民を守るとありますが、それも歴史は異なる証言をしています。軍というのは「国」を守っても「国民」は守りません(沖縄の経験)。

6. 第二〇条 信教の自由の侵害
 信教の自由を保証した二〇条の改正案では政教分離の原則が弱められています。まず気になるのは現行憲法の二〇条第1項から「政治上の権力を行使してはならない」が削除されています。これを削除することで、宗教団体が与党になって権力を行使しても問題にならないことになります。さらにもう一つは、政教分離を規定した第3項に、「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」と但書が入れられています。これは明らかに靖国神社の公式参拝に根拠を与えるためと思われます。総理大臣がA級戦犯を祀った靖国神社に参拝してもそれは社会的儀礼とされます。また町々で自治会をとおして、町会費が神社のために用いられても社会的儀礼となります。ここでも私たち少数者のキリスト者は困難な状況に追い込まれることになります。

7. 結び
 以上が改正草案の要点です。なぜ、今日、この草案をここで読んだのか、よくわかっていただけたのではないでしょうか。一体、この草案のとおり、憲法改正がなったなら、一体どうなるのでしょうか。皆が笑顔で光輝けるのでしょうか。ほんとうの意味でこの国を愛し続けることができるのでしょうか。キリスト者であるなしに関わらず、そうではないと断言できます。小さな町のひとりの牧師にすぎませんが、この国のすべてのキリスト者に、またこの時代を懸命に生きるすべて人たちに心から呼びかけたいのです。
 この憲法改正は間違っています。誰もが騙されないように、目を覚ましていなければなりません。
                               関キリスト教会牧師 橋谷英徳

・主な参考文献
 伊藤 真 著 「憲法問題 なぜいま改憲なのか」 PHP新書 2013年  
 木村 庸五著 日本キリスト改革派教会役員修養会「私たちの教会は憲法改正の動きにどう対応するか」 2013年

.2013年7月18日に関キリスト教会の集いで行った講話から再録したものです。
by rcjhashi | 2013-07-18 18:19 | etc |
2012年 01月 11日 |
今週の月曜日、9日の月曜日、はじめてマラソン大会に出場しました。
いちのみやタワーパークマラソン。
あまり色んなことが重なって、無理かと思ったのですが、
半年前からエントリーし、お金も払っていたので、迷った揚げ句、出場しました。

牧師ですから日曜日は走れません。いや走りません。
実はマラソン大会は圧倒的に日曜日ばかりで、月曜日の大会は珍しいのです。
あの「炎のランナー」(オリンピック選手がキリスト者で日曜日には走らないという実話に基づいた映画。ちなみに実在の彼は中国の宣教師になった)の話しを思い出します(笑)。
ただ炎のランナーは超早いのだけど、僕は超遅いということ。

結果は10キロを59分50秒。
よく走っている人としては相当遅いタイムです。
でも完走が目標でしたからこれはこれで満足だったりもします。

それにしてもすごくたくさんの人でした。何千人という人が走ります。
僕より、はるかに早い、御婦人やご老人のランナーもおおぜいおられました。

けれども、家に戻ってからです。
翌日は牧師館のリフォームが始まる日で、引っ越しに近いことをしなければなりません。
レースで10キロ走って、その数時間後には、荷物を上げ下げし…。
今も足が痛くて…痛くて…。

なぜ、走るのか。それはよくわかりません。
趣味に関してはどれも長続きしないのですが、ランニングは1年半続けています。
ただ今後、続くという保証はないのですが…。

明日は氷点下5度の予報。明日は寒いので走るのは止めよう。
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写真は、2週間ほど前の早朝。ランニング中に、あまりに美しいので写真を撮りました。
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by rcjhashi | 2012-01-11 23:30 | etc |
2011年 05月 09日 |
イースターが終わり、教会は春の伝道集会モードに移りつつあります。

昨日の日曜日は、教会の大掃除。
礼拝堂の椅子、週報ボックスなどを全部、外に出して、ワックス掛けをしました。
1年に2回、春と秋の伝道集会の前になされます。
これは伝統だそうです。
礼拝堂はぴかぴか、つるつるになりました。

もうすぐあの震災から2ヶ月が過ぎようとしています。
先日、NHKの心の時代という番組を見ました。
作家の辺見庸氏の「瓦礫の中から言葉を」という番組。
何枚かの写真が紹介される以外はほとんど辺見氏がカメラに向かって
1時間の間、ひたすら語りかけるという構成のシンプルな番組でした。
普通なら退屈するはずなのですが、不思議と少しも退屈しない。
身じろぎもせずかしこまってただただ聞き続けた。
いや、ほんとうに退屈どころではなかった。

感じてはいても、どうして言葉にならなかったことを辺見氏をとおして
言葉にされたとでもいうのでしょうか。
テレビを見て感情は揺さぶられはしても、
津波に襲われた被災地に立っても、
ほんとうには悲しむこということができなかったのですが、
辺見さんの言葉がストンととにかく心に落ちてきた。

この番組での辺見さんには、聖書の預言者に似たものを感じました。
アモスのような…。
激しく熱く太い言葉。

衝撃を受けて打ちのめされました。

辺見氏は、3・11後、作家として詩人として、
言葉のことをずっと考えておられるようです。
言葉を届けるということ、言葉の問題…。
3・11のことを言葉の問題として捕えておられます。
そして、瓦礫の中から言葉を拾い集めて、その言葉を伝えること、
これこそ自分にできることで、これからしなければならないことだと。

僕はようやく気づかされはじめた気がしています。
キリスト者にとって3・11は、聖書の言葉、説教の言葉の問題なのではないかと。
そこでこそ悩み、そこで苦闘しなければならないのではないでしょうか。
3・11後ということではないかと。
詩人や作家の方とは違った仕方で、

瓦礫の中から言葉を み言葉を 拾い集めていく
そういうことが今…。

★辺見さんの番組の要約は河津聖恵さんという詩人の方のブログで読むことができます。
 このブログの河津さんの言葉も必読です。
 河津さんのブログ 詩空間

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★写真は安桜山から見た関の街。教会は真ん中付近に。街には小高い山がたくさんあります。
by rcjhashi | 2011-05-09 14:33 | etc |
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